ツーアウト満塁空振り三振

生活密着型ウェブダイアリ1.0

隙間から入り込まれる

ダラダラ書き失礼。

お通夜の後に出される食事やお酒を一般的には「通夜振る舞い」というそうなのですが、私は「お清め」と言ってました。関東地方で使われるらしいので、おそらく母や祖母から聞いていたのだと思います。お葬式の後火葬場から戻っていただくのも「精進落とし」と言いますが、これもお清めって言ってたかも。先日、オットの同級生がインフルエンザで亡くなってお通夜があったのですが(40代って病気で亡くなる年代なんですよね、まだまだ若いから大丈夫、みたいな油断は禁物ですね)その時にそういえばと思い出したのでした。

学生時代、民俗学をかじっていたときにケガレ関連の本で、葬式(死のケガレ)の時にお清めが振舞われるのは、お腹が空いているとそこからケガレが入り込んでしまうので、空腹で弔問客を返さないようにするため、というようなことを読んでなるほどと思った記憶があります。だいぶ曖昧なんですけとね…。

この辺の本。たまには読み返すか…

ケガレの構造 (1984年)

ケガレの構造 (1984年)


その拡大解釈で、悲しい時や辛い時も、お腹が空いているとその感情が隙間に入り込んできてしまう、だからちゃんと食べなければ、というケガレの構造とは無縁の義務感で食べるようにしています。泣きながらでも食べます。それが自分が強くあるために必要なのだと思っています。特に一人暮らしをしていたときは辛いことも多く、でも一人で立ち上がらなければならないので嵐を爆音で聴きながら冷凍うどんをレンチンして釜玉うどんにして、泣きながらかっ込んでいました。よく頑張ったね自分。今は一緒に暮らす人がいることでだいぶ切り替えやすくなって泣きながら食べることもなくなりました。

しかし、先日大変ショックなことが起き、速報が流れてからネットで動画を見て、指先からどんどん血の気が引いていくのがわかりました。見終えても頭がクラクラしました。気持ちの整理がつかないまま、呆然としていたらオットがサイゼいこうと言ってくれて、サイゼリヤ で爆食いしました(何故かオットも爆食いしてました)。この時、一人部屋に閉じこもってメソメソしなくてよかったなと今思ってます。この後から気持ちの整理や過去の答え合わせ(あの時こんなこと言ってたなとか)、覚悟を持つことにとてもエネルギーを使うわけで、食べたら大丈夫、胃の隙間に悲しみが入り込んで来ないようにすれば私は大丈夫と思い込めるから。実際、ちゃんと食べていても熱を出して会社を休んでしまったりしたので、衝撃は自分でも量れないくらいだったのです。ちょっと、情けないな自分、とも思ってます。

これから2年間で基礎体力をつけなければ。2021年以降感じるであろう喪失感に負けないために、体幹を鍛えておきたい。