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「羽田七福いなり」をめぐる

気温が10度に満たない日の、午後。夕暮れ前に羽田七福いなりをめぐって歩いてきました。なぜこんな時間なのかというと、お昼すぎの待ち合わせ→なぜかカフェで集合したのでまったりコーヒーなど飲んでいたら歩き始めが15時になってしまったのでした…。

京急線糀谷駅近くから歩き始めて、多摩川沿いを歩き、穴守稲荷までの約2時間の散歩コース。各々一眼レフ(8人中7人一眼レフ持ち。内訳はCanon3;PENTAX2;SONY1;Nikon1)で撮影しながらのゆるゆる歩きになりました。

ところで七福いなりとは…。
anamori.jp
この地区のお稲荷さん7か所と、別格の弁財天をめぐるようになっています。稲荷神社はどこでもあるけど、これだけまとまっているのも面白い。

一、萩中 東官守稲荷神社 《身体安全》

糀谷商店街を抜けた先にある、萩中神社内に境内があります。ここまでたどり着く前に、商店街の面白風景とか、陶器のワゴンセールなどに引っ掛かっているのでその後の進捗がかなり危ぶまれた。

鎮座地:大田区萩中1-5-18 

東官守稲荷神社は、昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにあり、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていた。当時この地に住む村人らは半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。 大正6年の風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移された。しかし、また昭和20年4月、戦災の為焼失してしまったが、町民の努力により再建された。

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お稲荷さんの鳥居で遊んでいた子どもたち。良い笑顔をありがとね。もっと引いて鳥居を入れればよかったな…。

二、上田 妙法稲荷神社 《招福厄除》

千本鳥居みたいに、赤い鳥居が連なっているのは稲荷神社の特徴なんだろうか。(寄進ですよね)静かなお社でした。隣に小さな公園があって、遊具ではしゃいだりしました。

鎮座地:大田区本羽田1-12-9 

享和元年9月(1801年)大洪水の被害から立直る為、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。大正12年の関東大震災の折、大松も社殿も焼失したが、当地の有志により松の切株の上に八角堂が建立され、妙法稲荷と呼ばれ信仰を集めていた。昭和20年の戦災によって八角堂は焼失したが、昭和31年崇敬者並びに地元有志により現在の社殿が建立された。



三、大野 重幸稲荷神社 《開運長寿》

知らなければすっと通り過ぎてしまいそうな小ぢんまりしたお社。狐さんがなかなか怖い顔。狭い場所でいい大人がわあわあやってるので社務所から少し観察されるなど。すみません、怪しいものではありません。

鎮座地:大田区本羽田1-7-14

昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。度々の洪水に悩まされた村人達は、多摩川のほとり旧六郷土堤の際に、田畑の守護と五穀豊穣を祈って社を建立した。社前の道路は旧六郷土堤であり、現在の社の高さが旧堤防の高さであった。境内には樹令400年、幹まわり3.5メートルの楠の大木があったが、昭和20年4月の大空襲で焼失してしまった。社前の道路が一部膨らんでいる事が、大木のあったことと歴史の古さを物語っている。



四、中村 高山稲荷神社 《学業成就》

今度は打って変わって、広い通りに面した広々とした土地にメインのお社(中村天祖神社とその社務所)がだーんと建っており、お稲荷さんはその隣にちょこまかっと鎮座。狐さんがシュッとしてはる。

鎮座地:大田区本羽田3-12-2 【地図】

この辺りは中村と呼ばれ、社殿は名主 橋爪家(伊勢屋=本羽田3丁目辺り)の前にあったが、昭和4年の六郷土堤改修工事の際、現在地に移転された。移転前の社が飛騨高山より来た大工によって建築された事から、高山稲荷と呼ばれる様になったと云われている。戦前の初午祭には、芝居も催され大層の賑わいをみせた。この辺りの親達は初午の日に社前に小屋を作り、子供をお籠りさせてから寺小屋に入門させたと云う。


五、仲町 鴎稲荷神社 《開運招福》

川崎に渡る大師橋を超えて、今度は住宅地にひっそりとたたずむ鴎稲荷。名前がかわいいですね。赤い鳥居はとても新しい。鮮やか。お社と狐さんは新しめ。石の鳥居があったのだけどこれは古そうでした。(しかし写真はない。撮ったけどイマイチ)

鎮座地:大田区羽田6-20-10

この社に現存する石の鳥居には弘化2年(西暦1845年)建立と刻まれている所から、御鎮座はそれ以前となる。その昔、漁師たちが祈願すると鴎(かもめ)が飛来し大漁であったと云うことから、鴎を大漁の兆しとして崇め、以後「鴎稲荷」と呼ばれるようになった。大正13年頃 社屋を新築したが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。その後町民により再建され、現在でも初午の夜は篝火を焚き太鼓を打ち鳴らしている。


別格、羽田 玉川弁財天 《金運長寿》

三つ鱗紋の弁天様。向かって左側の紋がさびて取れてしまっているのが寂しい。それを空に掲げて「トライフォース」などと遊ぶアラフォー…。(ゼルダですかね)昔はこの辺まで海だったのでしょうかね。

鎮座地:大田区羽田6-13-8 

江戸名所図会に“羽田村の南も洲の先にあり、故に羽田弁財天と称せり。本尊は江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なりといへり。宝永八年(西暦1711年)四月此地に遷し奉る云々”とある。社頭は、江戸新堀 小西九兵衛という酒問屋が全て造ったとされ、境内の一部に常夜灯があり、沖行く舟の目標であったと云う。また、当社にまつわる様々な版画も残されている。現在の羽田空港内(要島・鈴木新田)にあったが、昭和20年9月連合軍の強制立退命令により現在地に遷った。

六、鷹取 白魚稲荷神社 《無病息災》

それまでほとんど羽田七福めぐりの案内板などなかったのに、突如弁天様の敷地内に現れた「白魚稲荷」への案内板…。たしかに、路地を進むので分かりにくい。周辺の人たちがよく聞かれるから用意してくださってるのだろうか。欄間に狐さんがいるので、お社の前にはいない。

鎮座地:大田区羽田5-27-8
武蔵国風土記に“漁士白魚を初めて得しときは、まず此の社に供ふる。故にかく云へり”と社名の起源が記されている。
白魚稲荷 例大祭の様子2 多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社頭は大いに盛んであった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏せの神様としても信仰がある。その為か、この社は先の大戦の戦火を免れた。


七、東京羽田 穴守稲荷神社

ラスト、もう日も暮れてしまったのにこんなに明るく撮ってくれるK-70さんえらい。千本鳥居は京都の伏見稲荷が有名だけど、伏見まで行けない撮影などは穴守稲荷が使われることもあるようですよ。千本までは全然ないけど結構圧巻の赤い鳥居。それを潜り抜けていくと富士塚があり、その頂上には御嶽神社が祀られています。



おまけ 羽田神社

立派でした!このあたりの開発に伴って、立ち退かざるを得なかった小さな神社が一気に集められていました。



歩いた距離は10km超、2万歩くらい!なかなかハードな散歩でしたがみんなでワイワイ言いながら歩いていたら意外と楽でした。寒かったけど。スタンプラリー的な楽しみがあり、撮影欲も満たされて、しかも夜は美味しい鶏料理の店だったのでおなかも満たされました。

この手のスタンプラリー的楽しみは日本人好みなんですかね、各方面にあるようです(新宿七福神とか)また別な場所でいろいろめぐりたい。ただ、羽田近辺は地形や土地自体も楽しかった。多摩川のかつての堤防跡もあったのですがこれについてはまた別途書きます。