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朝ドラ「ごち」を面白く見ていた理由

世間では花アンの違和感などについて意見が述べられているところ、いまになって「ごちそうさん」の話で恐縮ですが、私はあのドラマを楽しんでいました。どんなにいろいろ変なところがあったり、メインキャストが棒で、主人公が自分勝手すぎても、です。私が連続ドラマを見るときにかなり重要視しているのが「共感」で、ごちには少なからずそれを見つけていたからなのだと思います。共感が求められるのはわりとよくあることで、それを得やすいようにドラマは作られていることが多いと思うのです。花アンは原案を読んで以降ドラマをしっかり見る気力が失せてしまったのですが…。原案の書籍は大変興味深くて一気に読んじゃったのに、なんででしょねー?

ところでうちの母は料理上手でした(って書くと過去の人みたいだけど現在進行形です)。私が子どものころは働きに出ていたけど、それでもごはんの手を抜くことはありませんでした。たまに仕事のあとのお付き合いでご飯の時間に間に合わないときでも、私たちが暖めて食べられるようなものを準備して出かけてくれていました。今、父が入院中なんですが(昨日の日記参照)、自宅にいるときはとにかく料理から栄養を取らせようとしっかりご飯を作り続けています。たまに帰って食べる母のご飯は他やっぱり美味しい。もう自然になっちゃってるのだろうけど、自分以外の誰かに作るご飯は自分のためのそれよりも美味しくできるのかもしれない。そうした影響で、私は人にご飯を作るのがわりと好きです。そんなに上手じゃないけど。

さて、ごち。むちゃくちゃなところがあるけどめ以子は人のために料理をする。人のためになにかするという自己満足なのかもしれないけど、誰かのために一生懸命料理をするというところに、私はわりと共感を覚えていたのだと思います。多分それはめ以子の愛情の形だったと思うので。あまりお勉強の出来ないめ以子は自分の気持ちを伝えるボキャブラリーがそんなに多くなく、ばかみたいなことを言ったりやったりしているのだけど、愛情いっぱいの気持ちは料理と言う形になって人に届けられているのだなあとぼんやり思っていました。め以子のそんな愛情深いところが、私はとても好きでした。だから録画してもなんとなく最後まで(しかも特番まで)見てしまったのでしょう。

母が父のために一生懸命ご飯を作っているのを見ていると、母の愛情の形はこの食卓だったのだなあと思ったりします。もちろんそれだけじゃないけど、とても象徴的なものとして思います。そして父が入院している間、母は一人で何を食べているのだろうと考えてしまいました。自分自身にちゃんと愛情をかけてあげられる人だったっけ…?毎日帰るのは無理だけど、出来る限り実家に帰ろう。

今日仕事で「可視化」について話を聞いていたらこんなことを思ってしまいました。ごちのなかで、ふ久も「お母さんの見えない力」という表現をしていたなあ、などと思い出したり。愛情の可視化が食卓だったというところに共感を覚えていたというわけですね。